スゲヌマ(第7回)

スゲヌマ

■回数・・・・第7回
■施行日・・・1938年5月29日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 2/5
■騎手・・・・中村広
■調教師・・・中村広
■馬主・・・・千明賢治


【列伝】
スゲヌマ(別名:カーネーシービー)は日本の競走馬。第二次世界大戦目前の1939年に第7回東京優駿競走(日本ダービー)に優勝した。名前の由来は群馬県にある菅沼より。

馬主である千明賢治の息子、千明康は1963年にメイズイで、孫の千明大作は1983年にミスターシービーでそれぞれ日本ダービーに当たる競走を勝っており、馬主の親子三代での日本ダービー勝利は今のところ唯一の例である。また、スゲヌマは3代母アピアランスの血統が不明のサラブレッド系種で、当時は血統管理が甘くこのような馬が多く存在した。


《戦績》
デビュー3戦目から4連勝で東京優駿競走に優勝。この年から日本競馬会が発足しており、日本競馬会が主催する日本ダービーに当たる競走の最初の勝ち馬になった。

東京優駿競走以後も活躍し、翌年には5連勝で帝室御賞典(春)に優勝、他に横浜農賞にも優勝しているが、11月に行われた目黒記念(秋)で1位で入選するものの後に興奮剤の私用が発覚し失格となる事件を起こしている。結局この事件が元で目黒記念を最後に引退することとなり、カーネーシービーの名で種牡馬入りした。1943年には日高種畜牧場に移り元の名スゲヌマで繋用されたが1945年に廃用。終戦直後の混乱期の中行方不明となった。500kg近い大型馬で、後に主戦騎手兼調教師の中村広は当時を振り返り、「柄は大きいが気分屋、調教では走ったけどレースではその日の風まかせだったね」と語っていた。


【競走成績】
■1938年(11戦4勝)
東京優駿競走(日本ダービー)、2着 - 横浜農賞

■1939年(12戦8勝)
帝室御賞典(春)、横浜特別、横浜農賞


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド系種
■生誕: 1935年4月7日
■死没: 不明(1945年8月廃用)
■父: プライオリーパーク
■母: 国宝
■生産: 千明牧場
■生国: 日本(群馬県片品村)
■馬主: 千明賢治
■調教師: 中村広(東京)→小山内重蔵
■生涯成績: 23戦12勝
■獲得賞金: 8万5154円

スゲヌマの画像

(出典:Wikipedia)

ヒサトモ(第6回)

ヒサトモ

■回数・・・・第6回
■施行日・・・1937年4月29日
■性齢・・・・牝3
■勝時計・・・2:33 3/5
■騎手・・・・中島時一
■調教師・・・中島時一
■馬主・・・・宮崎信太郎


【列伝】
ヒサトモ(繁殖名:久友、1934年 - 1949年)は戦前活躍した日本の競走馬。牝馬として史上初の東京優駿大競走(現在の東京優駿(日本ダービー))制覇を達成した名牝だが、不遇の晩年を送り悲劇の名牝と呼ばれた。6代孫の牝系子孫にトウカイテイオーがいる。半兄に種牡馬として成功した月友がいる。

《戦績》
ヒサトモは関西の騎手兼調教師の中島時一厩舎の所属で、デビュー前から東京優駿大競走(日本ダービー)を狙っていた。しかし中島には関東での調教免許が無かったため関東の大久保房松調教師に管理を依頼し、自身は騎手として携わる事にした。当時はまだ牝馬クラシックも無く、京都農林省典4歳呼馬(菊花賞)と阪神優駿牝馬(オークス)が始まるのは翌年からである。その他1937年(昭和12年)の出来事と言えば、ウォーアドミラルのアメリカクラシック三冠達成や女傑コリーダの凱旋門賞連覇などがある。

3歳3月にデビューしたヒサトモは初戦こそ3着に敗れるが2戦目で勝ち上がると、3戦目も後の秋の帝室御賞典(現在の天皇賞)優勝馬ハツピーマイトを下してレコードで連勝。続いて古馬相手に2着に入り東京優駿大競走に挑む。ここで17頭立ての4番人気に推されたヒサトモは、従来の記録を8秒8も更新するレコード勝ちを収めた。牝馬が東京優駿大競走(日本ダービー)を制したのはこれが初めて。後にクリフジ・ウオッカも勝っているが、牝馬の東京優駿大競走優勝馬は未だにこの3頭しかいない。なお、2着にも牝馬であるサンダーランドが入り、牝馬による1着・2着を飾ったが当然史上唯一の記録である[1]。

秋に復帰したヒサトモは秋の第1回帝室御賞典(天皇賞)でハツピーマイトの3着に入ったものの勝ち切れないレースが続いた。しかし、4歳になって本格化したヒサトモはこの年16戦11勝の活躍振りで2度目の挑戦となった春の帝室御賞典としては再び3着に敗れたが、1番人気に推された秋の帝室御賞典を大差勝ちし、3度目の正直で大きな勲章を手に入れた。2着にも牝馬であるフエアモアが入り、東京優駿大競走に続いての牝馬で1着・2着を独占している。


《引退後》
輝かしい競走実績を残したヒサトモだったが、この年一杯で繁殖入りするとその生涯は暗転してしまう。

繁殖牝馬としては仔出しが悪く、産駒成績も振るわないでいたヒサトモに対し、関係者が取った措置は競馬への復帰であった。当時の馬産の常識では繁殖牝馬に脂肪が付き過ぎると受胎率が下がると考えられており、競走に使う事によって脂肪を落とせば受胎できる体になるのではないかと、当時は年齢制限の無かった地方競馬で走らせる事になったものであった。もっとも、当時の競走馬不足などその他の要因もあったとは思われるが、当時は戦後間もなくの混乱期の上、また、戦争と敗戦のために馬資源が完全に枯渇しきっていたという事情などもあり、15歳の牝馬を競走に用いた事について、現在の価値観をもって関係者を批判することはできない。

15歳になったヒサトモは11年ぶりに当時復興したばかりの地方競馬で現役復帰し、1949年(昭和24年)10月31日の戸塚競馬場での復帰戦は5着。しかし、老いたとはいえ東京優駿大競走をレコードで牡馬を蹴散らせたヒサトモで、11月4日の2戦目には2着入線。次の開催地である柏競馬場に移動して前走から中3日のレースで勝利を上げている。なお、多くの記述がヒサトモは地方競馬で2戦と書いているが、実際には戸塚で2戦、その後に柏で3戦の計5戦を1ヶ月半の間に戦っており、柏では10日間の間に2勝を上げている。

ちなみに現在の感覚で見ればまったく過酷な話であるが、馬資源が極限まで欠乏していた当時の競馬の馬の使い方においては、他馬との比較では決して厳しい使い方とは言い切れない。この時代の地方競馬では、開催期間中は連日連闘を繰り返し2カ月間で20戦近く戦った馬もいるとされる。また連日連闘については当時は国営競馬でもよく見られる事であった[2]。

しかしその後、11月19日に柏競馬場での調教中に非業の死を遂げた(浦和競馬場という説もある)。歴代の日本ダービー優勝馬で調教中に死亡したのは第4回優勝馬のガヴアナー(骨折による予後不良)とこのヒサトモだけである。戦後の混乱期でもあったため、亡骸は行方知れずとなり墓も無い。また戦後ヒサトモが走った戸塚競馬場と柏競馬場も現存しない。

ヒサトモの最後は競馬史に名を残す名馬の最後としてはあまりにも悲しく、救われない最後だった。しかしその後、ヒサトモの血は最後の仔であるブリューリボンにより細々と生き残り、ヒサトモの死から35年後のオークスをトウカイローマンが制覇、さらにトウカイローマンから7年後にはトウカイテイオーが無敗で東京優駿(日本ダービー)を制覇し、一族の怨念を晴らした。ただ、同様の話であるテンポイントの祖母クモワカの伝貧事件と違い、ヒサトモはトウカイテイオーの6代母であるために話題に上ることは少ない。なお15歳6ヶ月での出走は、公式記録として現在まで残るものでは、2006年にオースミレパード(高知競馬所属)によって更新されるまで、長きに渡り日本のサラブレッド系の最高齢出走記録であり続けた。

※注釈
1当時、現在の優駿牝馬(オークス)にあたる阪神優駿牝馬競走は秋季の開催であり、多くの牝馬が東京優駿大競走に出走していた。

2現在は制度上中4日以上間隔をとらなければならないため、連日連闘は不可能になっている


【主な産駒】
《繁殖成績》
■1940年:宮友(ミヤトモ)(牡*セフト)
■1941年:信友(サチトモ)(牝*セフト)
■1944年:正友(ヒサトマン)(牡*セフト)5勝
■1945年:福友(ブリューリボン)(牝*ステーツマン)5勝
■玄孫にトウカイローマン(優駿牝馬(オークス) - GI)、トウカイタロー(新潟記念 - GIII)、来孫にトウカイテイオー(皐月賞 - GI、東京優駿(日本ダービー) - GI)、トウカイオーザ(アルゼンチン共和国杯 - GII)


『データ』
■性別: 牝
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1934年4月23日
■死没: 1949年11月19日
■父: トウルヌソル
■母: 星友
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 宮崎信太郎/宮崎正義
■調教師: 中島時一(阪神)
■生涯成績: 31戦16勝(地方5戦2勝)
■獲得賞金: 9万8981円

ヒサトモの画像

(出典:Wikipedia)

トクマサ(第5回)

トクマサ

■回数・・・・第5回
■施行日・・・1936年4月29日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:42 1/5
■騎手・・・・伊藤正四郎
■調教師・・・尾形景造
■馬主・・・・山中清兵衛


【列伝】
トクマサ(得正)は、日本の競走馬。1936年に行われた第5回東京優駿大競走(日本ダービー)優勝馬である。血統は父が戦前の大種牡馬トウルヌソル、母も輸入繁殖牝馬種正(Young Man's Fancy)という良血。全兄に帝室御賞典(阪神)に勝ったキンチヤンがいる。

東京優駿大競走は6走目。1勝馬の身ながら挑み、5番人気で競走後に特払いが出る人気薄であった。このとき重馬場(実際は稍不)を見越してトクマサにスパイク鉄を履かせていたという。レースは最後の直線で騎手・伊藤正四郎が鞭が折れる程の気合の騎乗を見せ2分42秒1のタイムで優勝。2勝目を飾った。他に翌月横浜で行われた帝室御賞典、1937年の目黒記念(春)、中山記念(秋)等の勝ち鞍がある。全成績は27戦9勝、獲得賞金は6万3602円75銭。引退後は朝鮮の蘭谷牧場で種牡馬として供用されたが終戦の混乱期に行方不明となり、1943年以降の消息は資料散在もあり不明である。


【競走成績】
■1936年(12戦3勝)
東京優駿大競走(日本ダービー)、帝室御賞典(横浜)

■1937年(15戦6勝)
目黒記念(春)、中山記念(秋)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1933年
■死没: 1943年以降不明
■父: トウルヌソル
■母: 種星
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 山中清兵衛
■調教師: 尾形景造(東京)
■生涯成績: 27戦9勝
■獲得賞金: 6万3602円75銭

トクマサの画像(4番)

(出典:Wikipedia)

ガヴアナー(第4回)

ガヴアナー

■回数・・・・第4回
■施行日・・・1935年4月29日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:42 1/5
■騎手・・・・井川為男
■調教師・・・布施季三
■馬主・・・・高橋錬逸


【列伝】
ガヴアナー(1932年 - 1935年)は、日本の競走馬。父は小岩井農場が擁した戦前の大種牡馬シアンモア、母は帝室御賞典優勝馬アストラル。

1935年に行われた第4回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。全兄に第2回東京優駿大競走優勝馬カブトヤマがおり、日本ダービー史上初の兄弟制覇を達成している。他の兄弟では全弟に帝室御賞典 (秋)(第7回天皇賞)に優勝したロッキーモアー等がいる。騎乗騎手は3戦とも井川為男。


《略歴》
1935年3月にデビューすると2連勝を上げ東京優駿大競走に出走した。1番人気は3歳(旧4歳)にして帝室御賞典に優勝していた牝馬クレオパトラトマス。不良馬場の中クレオパトラトマスは9着に沈み、ガヴアナーはアカイシダケに6馬身差をつけ、タイムもレコードで優勝した。だが、東京優駿大競走のわずか2週間後、5月15日左後ろ足の種子骨を骨折し、治療の甲斐なく同月28日に安楽死の処置が執られた。


【主な勝ち鞍】
■1935年(3戦3勝)
東京優駿大競走(日本ダービー)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1932年3月9日
■死没: 1935年5月28日
■父: シアンモア
■母: アストラル
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 高橋錬逸
■調教師: 布施季三(福島)
■生涯成績: 3戦3勝
■獲得賞金: 28,230円

ガヴアナー画像

(出典:Wikipedia)

フレーモア(第3回)

フレーモア

■回数・・・・第3回
■施行日・・・1934年4月22日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:45 2/5
■騎手・・・・大久保亀治
■調教師・・・尾形景造
■馬主・・・・土田荘助


【列伝】
フレーモア(繁殖名ブラオンジヤツク、1931年 - 1945年不明)は、日本の競走馬。1934年に行われた第3回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。全妹にアステリモア(阪神優駿牝馬(オークス))、フェアモア(目黒記念(秋))がいる。なお史上唯一の秋田県産の日本ダービー優勝馬である。

デビューから3連勝で挑んだ東京優駿大競走は、デビュー3戦ともレコードで制し、前走帝室御賞典(東京)でもカブトヤマ等を破って本命と目されたミラクルユートピアが回避したことで1番人気に押され、結果テーモア等を下して勝利した。3着まで尾形景造の調教馬で占められ、同一厩舎の調教馬による上位3頭独占は日本ダービーに相当する競走においては今のところ唯一の快挙である。秋には東京で行われた帝室御賞典も制した。右前足の故障により現役を退くと、ブラオンジヤツクのと名を変え傷が癒えた5歳から静内の伊藤繁太郎の元で種牡馬入りした。カミカゼ、ホウカツピータの2頭の中山大障害(春)優勝馬を輩出している。1945年廃用となり、その後戦後の混乱の中消息不明となった。


【年度別競走成績】
■1934年(13戦7勝)
東京優駿大競走、帝室御賞典(東京)、中山四歳特別


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1931年5月25日
■死没: 1945年?
■父: シアンモア
■母: アステリヤ
■生産: 土田荘助
■生国: 日本(秋田県雄物川町)
■馬主: 土田荘助
■調教師: 尾形景造(東京)
■生涯成績: 13戦7勝
■獲得賞金: 53,257円

フレーモアの画像

(出典:Wikipedia)

カブトヤマ(第2回)

カブトヤマ

■回数・・・・第2回
■施行日・・・1933年4月23日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:41 0/5
■騎手・・・・大久保房松
■調教師・・・大久保房松
■馬主・・・・前川道平


【列伝】
カブトヤマは、日本の競走馬である。1933年に第2回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。父は小岩井農場が擁した戦前の大種牡馬シアンモア、母は帝室御賞典優勝馬アストラル。

全弟に東京優駿大競走に優勝したガヴアナー、帝室御賞典優勝馬ロッキーモアーがいる。

1933年03月25日に中山競馬場の新呼馬戦でデビュー、初勝利を挙げる。その後1戦(3着)して2戦1勝で臨んだ第2回東京優駿大競走を優勝。

当時は調騎分離の以前で、カブトヤマを管理する大久保房松は、調教師でありながら主戦騎手でもあり29戦全てに騎乗した。デビュー戦を勝ち、東京優駿大競走では、大久保房松が体調を崩し一度は騎乗を辞退しながらも「僕は君のためにこの馬を預けた。もしダービーを勝っても騎手が君じゃなかったらあまり嬉しくはないだろう。」という馬主である前川道平の心意気に応えるために騎乗を決意し。高熱で朦朧としながら見事優勝した。というエピソードを持っている。

その後もカブトヤマは活躍を続け、5歳時には目黒記念、帝室御賞典(福島)、阪神農林省賞典等にも優勝した。

引退後は青森県の東北牧場にて種牡馬入りし、マツミドリ(東京優駿競走、京都記念)、千鳥甲等の産駒を輩出する。

後種牡馬となってから、産駒のマツミドリが東京優駿競走(日本ダービー)に優勝し、日本ダービー馬として初めて日本ダービー馬を輩出。この偉業をたたえ、1947年から2003年まで同馬を記念しカブトヤマ記念という名の父内国産馬限定の重賞競走が行われていた。

1951年に老衰のため死亡し、東北牧場の七戸町向平分場に埋葬された。


【年度別競走成績】
■1933年(10戦4勝)
東京優駿大競走

■1934年(19戦8勝)
帝室御賞典(福島)、目黒記念


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1930年3月5日
■死没: 1951年8月13日
■父: シアンモア
■母: アストラル
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 前川道平
■調教師: 大久保房松(目黒)
■生涯成績: 29戦12勝
■獲得賞金: 74965円

カブトヤマの画像

(出典:Wikipedia)

ワカタカ(第1回)

ワカタカ

■回数・・・・第1回
■施行日・・・1932年4月24日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:45 2/5
■騎手・・・・函館孫作
■調教師・・・東原玉造
■馬主・・・・乾鼎一


【列伝】
ワカタカ(1929年 - 1945年)は、日本の競走馬である。1932年に記念すべき第1回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。

現在の東京優駿に当る東京優駿大競走は、1932年に目黒にあった東京競馬場で第1回が行われている。1着賞金は1万円、19頭立てであった。そのなかでも前走10馬身差で圧勝していたワカタカは1.95倍の断然の1番人気に押されていた。レースは函館孫作騎乗のワカタカが人気に答えてオオツカヤマに4馬身差をつけ逃げ切り勝ちを収めた。 ワカタカは東京優駿大競走以後も活躍し、帝室御賞典(東京)、横浜特別等の大競走に優勝している。

引退後は日高種馬牧場で国有種牡馬として繋養されたようだが、サラ系(3代母がミラ)であったことも災いし成功することはできなかった。産駒のほとんどがアラブ競走で走っていたという。1943年に廃用、その後1945年に慢性肺気腫により死亡したという。静内農学校(現・静内高校)の用地内に埋葬されている。

■20世紀の名馬Dream Horses2000 - 第118位


【年度別競走成績】
■1932年(11戦7勝)
東京優駿大競走、帝室御賞典、横浜特別

■1933年(10戦5勝)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド系種
■生誕: 1929年3月17日
■死没: 1945年3月10日
■父: トウルヌソル
■母: 種信
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 乾鼎一
■調教師: 東原玉造(中山)
■生涯成績: 21戦12勝
■獲得賞金: 7万3698円

ワカタカの画像

(出典:Wikipedia)

東京優駿に因んで・・・

東京優駿開催に因んで、1988年より東京優駿制覇騎手のみが騎乗出来るダービージョッキーズステークスと、東京優駿優勝馬の産駒のみが出走できるダービースタリオンズステークス(ともに準オープン)という競走が開催されていたが、ともに出走対象が激減していたために現在は廃止された。

(出典:Wikipedia)

ダービーフェスティバル

東京優駿の開催気運を盛り上げるために1983年から毎年開かれている日本中央競馬会主催のイベントである。

毎年、東京優駿が開催される週(原則5月最終日曜日)の月曜日に東京都内で開かれるこのイベントでは、その年の東京優駿に出走が予定されている注目馬の騎手や競馬愛好家のタレント、新聞・放送マスコミに携わる競馬ジャーナリストが一堂に会し、東京優駿のレース展望会や騎手インタビュー、クイズ大会などで盛り上がっている。なお2005年度は主催者の都合により都内ではこのイベントは行わずに、東京競馬場内でのサービスの拡充に費やした。

またダービーを題材にしたイベントが主としてダービーウィークの平日を中心に全国各地で展開されており、新潟市において「ダービーフェスティバル(西暦年数)」が新潟競馬場・新潟放送の共催で毎年行われる。なお、現在イベントの形で残っているダービーフェスティバルは、この新潟で行われているものだけである。2005年度は2004年の有馬記念フェスティバルを受けて新潟でも元JRA職員で、格闘家の小川直也が招かれた。

(出典:Wikipedia)

大西直宏騎手の引退で・・・

2006年12月、1997年にサニーブライアンで制した大西直宏が騎手から引退したことにより、美浦トレーニングセンターに所属する現役ダービージョッキーが皆無となった。美浦トレーニングセンター、またそれ以前の競馬場に厩舎が所属していた時代も含めて、関東圏に籍を置く現役ダービージョッキーが不在になるという事態は、日本近代競馬のクラシック路線の成立後、史上初の事態である。

(出典:Wikipedia)

連覇した調教師

2007年現在、クラシック競走で唯一、連覇した調教師がいない。本競走を8勝した尾形藤吉でさえ成し得なかった。

(出典:Wikipedia)

小倉デビュー

2005年までの段階で、デビュー戦を小倉競馬場で迎えた競走馬が東京優駿を制した例は無かったが、2006年の本競走においてメイショウサムソンが小倉デビューの競走馬として史上初めて優勝した。

(出典:Wikipedia)

間違って買わないで・・・

中央競馬ではほとんどのGI・JpnI競走は第11競走で施行されるが、東京優駿当日は全体の競走数ならびに、メインとなる本競走の競走番号が他の競走と異なる。1989年〜2001年までは、当日は全部で10競走、東京優駿は第9競走で行われていた。2002年からは全体で1競走増加し、当日は11競走行われ、東京優駿は第10競走で行われていた。2006年からは東京優駿当日、薄暮開催を行い、最終競走に目黒記念を実施しているため、レース当日は全体で12競走行われるが、東京優駿は第10競走で行われる。通常の日程と勘違いして勝馬投票券を第11競走のものを購入してしまう観客も度々見られる。購入の際には注意が必要である。また馬券を発売している施設では注意喚起の放送が繰り返される。

(出典:Wikipedia)

馬運車

競走馬輸送を行う日本馬匹輸送自動車は馬運車に東京優駿の歴代優勝馬の名前をつけている(最近は名前が足りなくなり顕彰馬の名前をつけているものもある)。

(出典:Wikipedia)

ゼッケンについて

中央競馬の3歳クラシック競走では、ゼッケンは紺地に黄色の数字のものを使用するが、本競走に限り一般競走と同様の白地に黒の数字のものを用いる。ただし一般競走のそれと異なり、金糸による縁取りが施されている。また、馬番の下に記載されるものは、スタンド側から見えるものについては馬名、内馬場側から見えるものについては第○○回日本ダービーの表示である。なお、その他のGI競走で使用されるゼッケンは、紺地に白色の数字を用いたものである。また、馬名が併記されるようになったのは1988年以降である(それまでは馬名入りゼッケンはジャパンカップ(1983年の第3回より使用)のみであった)。

(出典:Wikipedia)

ファンファーレ

例年、東京優駿のファンファーレ、表彰式の演奏は、陸上自衛隊中央音楽隊が担当している(他にもジャパンカップや、年度にもよるが有馬記念でも同様に演奏を担当している場合がある)。なお、ファンファーレは競走の出走可能頭数と同じ18人で演奏する。

(出典:Wikipedia)

2着馬の躍進!

本競走の優勝馬の中には、その後故障による早期引退や成績不振に喘いでいる馬が多いのに対し(1990年以降、古馬になってからもGI競走を制したのはトウカイテイオー・スペシャルウィーク・ディープインパクト・メイショウサムソンの4頭のみ)、2着入賞馬はその後1着馬以上に活躍・出世するケースが近年顕著になってきている。1990-2004年の2着入賞馬15頭のうち実に13頭がその後GI競走を制しており、ライスシャワー・ビワハヤヒデ・ナリタトップロード・シンボリクリスエス・ゼンノロブロイ・ハーツクライなどが名を連ねている。

(出典:Wikipedia)

日本ダービーのジンクスを打ち破ったのは・・・

フルゲートが20頭代後半(1970年代で概ね28頭。多い年は30頭を超すこともあった)であった1990年頃まではテレビによく映るからとの理由で距離がもたないと分かりながらも、大逃げを打つテレビ馬と呼ばれる馬が存在した。そのため東京優駿は概ねハイペースとなった。また、その頃まで第1コーナーに入る時点での10番手以内は「ダービーポジション」と呼ばれ、大外枠(8枠)は勝てないという至極真っ当なジンクスもあった。そのジンクスが破られたのはフルゲートが20頭となった1991年で、この年の勝ち馬トウカイテイオーの枠番は、8枠20番だった(1992年からは馬番連勝複式勝馬投票券の導入に伴う法令上の都合から出走頭数制限がなされ、最大18頭までの出走となる)。

(出典:Wikipedia)

最年少勝利騎手

最年少勝利騎手は第12回を優勝した前田長吉の20歳3か月。日本中央競馬会成立以後に限ると、第38回を優勝した田島良保の23歳7か月。

(出典:Wikipedia)

クリフジと前田長吉の画像

他の競馬場での代替開催は一切しない

競馬における東京優駿の位置づけは特別である。皐月賞など他のレースはスタンド改築などにより他の競馬場で代替開催されることはあるが、東京優駿は第3回に目黒の競馬場から現在の府中の東京競馬場への移転によるコース変更があっただけで、他の競馬場での代替開催は一切行われたことがない。過去に東京競馬場のスタンド改修などがあった時にも、時期をずらして施行されている。また、近年は東京競馬場の改修工事を東京優駿の開催は変更しない前提で日程を組んでいる。これは7大原則の7の「以上1.から6.を満たす競走は、国内において本競走のみとすること」に基づいているからである。

(出典:Wikipedia)

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