重賞とは?

重賞(じゅうしょう)とは、競馬の競走の中の目玉となる大きな競走である。

【解説】
重賞の開催は事前から告知を行い、有力馬を集め、多くの観客を集めるための看板となる競走である。

重賞の語源は英語のパターンレース(pattern race)から来ている。パターンレースとは「毎年一定の時期に一定の条件で繰り返し行われる競走」のことで、18世紀のイギリスで始まった。それ以前は競馬の競走は開催直前まで条件が確定されないことが常であったが、パターンレースが広まることによって有力馬が目標を持って調整を行うことが可能となった。重賞という語は、このパターンレースの「回を重ねて賞を行う」点を採って意訳したものとされる。もちろん「重要な賞」であることに疑いはないが、patternという語に「重要な」という意味はない。

ただし、現在ではパターンレースの訳語が重賞である、と単純に定義づけることはできない。例えば、グレード制(またはグループ制)のもとではパターンレースはG1(グレード1もしくはグループ1、以下同じ)、G2、G3およびL(LR、リステッドレース、Listed race)に格付けされるが、このうちリステッドレースは日本では主に「準重賞」と訳され、重賞には含めない。

日本でも重賞以外の一般競走・特別競走の番組が一部を除いて中央競馬では年3回、地方競馬では当該開催の直前に所属馬の動向を鑑みて発表されるのに対し、重賞は年度ごとの発表であり、なおかつ頻繁な条件の変更は行われないことから、「重賞はパターンレースの一種」であるということは間違いない。

重賞に対応する言葉としてグレード競走(グループ競走)という表現が用いられることも多いが、日本にはグレードなどの格付けのない重賞も地方競馬を中心に多数存在する。準重賞は地方競馬では現在も用いられている。

中央競馬では、降雪等により出馬投票後に芝コースからダートコースに馬場変更となった場合には、重賞競走のままであるが格付けは設定されない。最近では、1998年の共同通信杯4歳ステークスがこれにあたり、降雪で本来の芝1800mからダート1600mに変更となったため重賞の扱いは変わらないものの格付け(JRAGIII)は外された。一方、グレード制導入初年度であった1984年のアメリカジョッキークラブカップでは当初の格付け(JRAGII)のまま施行されている。

中継などで司会者や評論家らが言う「重賞」はJRAGII・JpnII、JRAGIII・JpnIIIレースを指す場合が多い。

(出典:Wikipedia)
タグ:競馬 重賞

タチカゼ(第16回)

タチカゼ

■回数・・・・第16回
■施行日・・・1949年6月5日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 4/5
■騎手・・・・近藤武夫
■調教師・・・伊藤勝吉
■馬主・・・・熊谷八郎


【列伝】
タチカゼ(1946年 - 1965年2月22日)は日本の競走馬。父プリメロと母第参パプースの間に生まれた鹿毛の牡のサラブレッドである。第16回優駿競走(現東京優駿、日本ダービー)に優勝した。小岩井農場の生産馬である。

1948年11月13日にデビューしたタチカゼは優駿競走までに7戦2勝、前走も全くいいところ無く敗れ、その結果に呆れた伊藤勝吉調教師が関西に帰った事もあり、評価ガタ落ちで23頭立て19番人気と言う低評価となった。だが、肝心のレースは1番人気の皐月賞優勝馬トサミドリが鞍上の無茶な騎乗が祟り7着に沈んだ事もあり、12番人気の牝馬・シラオキ(引退後、二冠馬コダマの母となる)に半馬身差をつけ優勝した。この時の単勝配当55430円・複勝9230円は、八大競走史上最高配当として今なお破られていない。タチカゼに見切りをつけ関西に帰った伊藤調教師は、この知らせに腰を抜かしたと言う。

タチカゼはこの後オープン競走ばかりに4勝。菊花賞ではトサミドリの前に4着に敗れたが、引退レースでは11連勝を達成したトサミドリを下している。


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1946年
■死没: 1965年2月22日
■父: プリメロ
■母: 第参パプース
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 熊谷八郎
■調教師: 伊藤勝吉(京都)
■生涯成績: 16戦7勝
■獲得賞金: 178万8400円

画像無し

(出典:Wikipedia)

ミハルオー(第15回)

ミハルオー

■回数・・・・第15回
■施行日・・・1948年6月6日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 2/5
■騎手・・・・新屋幸吉
■調教師・・・上村大治郎
■馬主・・・・石川了吉


【列伝】
ミハルオーは日本の競走馬。父月友と母第参フラッシングラスの間に生まれた栗毛の牡のサラブレッドである。第15回優駿競走(現東京優駿・日本ダービー)に優勝したほか天皇賞(春)にも優勝した。

デビュー7連勝の後農林省賞典(現皐月賞)でヒデヒカリの3着に敗れたが、優駿競走ではゲートで暴れて大外発走になったにもかかわらず2馬身差で快勝した。その後しばらくは精彩を欠いていたが天皇賞(春)で復活を遂げると4連勝をあげ引退した。種牡馬入り後は中山大障害(春)優勝馬キタノイヅミ等の産駒を輩出している。


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1945年
■死没: 1956年
■父: 月友
■母: 第参フラッシングラス
■生産: 富岡牧場
■生国: 日本(北海道浦河町)
■馬主: 石川了吉
■調教師: 上村大治郎(東京)
■久保田金造(京都)
■生涯成績: 19戦13勝
■獲得賞金: 221万9060円

画像無し

(出典:Wikipedia)

馬伝染性貧血とは?

馬伝染性貧血(うまでんせんせいひんけつ)は馬に発生する病気、伝染病である。伝貧(でんぴん)ともいう。家畜伝染病予防法に基づく家畜伝染病の一つ。


【原因と症状】
本疾病の原因となる馬伝染性貧血ウイルスはレトロウイルス科レンチウイルス属に分類されるRNAウイルスで、エンベロープを保有する。

ウイルスを含む血液がアブ、サシバエなどの吸血昆虫により伝搬されることで、馬やロバなどのウマ類にのみ感染する。その他に母子の胎盤感染、乳汁感染も成立する。また、過去に競馬場や牧場などでしばしば見られた競走馬の集団発生では、ウイルスに汚染された注射器を使用した事が原因とされるものもある。

本疾病は重度の貧血を伴う高熱が特徴で、高熱が持続して衰弱死亡する急性型、発熱の繰り返しによりやがては衰弱〜死亡に至る亜急性型、発熱を繰り返すもののやがて徐々に軽度となり健康馬と見分けができなくなる慢性型に大別される。


【歴史と対処】
本疾病は日本国内では家畜伝染病予防法において、伝染性海綿状脳症、豚コレラ、狂犬病など共に家畜伝染病に指定されているものである。日本では1883年に本病と思われる疾病の初報告があったが、当時は明確な診断をする方法が存在しておらず、昭和20年代には年間に1万頭近く、昭和30年代になってもまだ数百頭単位の馬が症状から感染馬として摘発されて殺処分されていた。

馬伝染性貧血ウイルスは抗原変異を容易に起こす性質を持つ為、ワクチンの開発は現実的に見て不可能である。この抗原変異の問題ゆえに、感染した患畜については治療をする方法が存在せず、摘発淘汰による感染拡大の予防が何よりも重要となる。これらの事があり、検査で本疾病について陽性の診断が確定した場合には、当該患畜を速やかに殺処分する事だけが、現在でも感染拡大を阻止する唯一の予防法となっている。

日本国内で飼育されているウマ類の動物は、定期的にこの病気についての検査を受けることが義務付けられている。感染が確認された場合には蔓延を防ぐ為、法令や規則に基づき競走馬や繁殖馬としての登録の抹消と家畜伝染病予防法第17条に基づく殺処分命令が出される。当該患畜の所有者・管理者はこれを受け入れ、速やかに処分を実施しなければならない義務を負う。家畜伝染病予防法第17条に基づく殺処分命令の権限は都道府県知事が持つ。また、家畜伝染病予防法第21条により、患畜の死体について遅滞無く焼却または埋却する事も所有者には義務づけられる。

所有者の不在、拒否、抵抗などでこれら必要な処分を行う事ができず、しかし緊急性を伴う場合には、所有者に代わって家畜防疫員が殺処分を代行する場合もある。実際、1970年に起きた日高地区の伝貧騒動では、とある牧場主が感染した所有馬に出された殺処分命令に頑なに抵抗したため、やむなく家畜防疫員が殺処分を実施した例がある。また、防疫上の観点からは緊急性が高いものであるため、やむを得ず非常の手段がとられる事も見られ、このケースでは、迅速な処分の実行の為に、知事の依頼により北海道警察の機動隊が牧場へ出動する騒ぎにまで発展している(ちなみに、この馬は殺処分後に解剖されたところ、やはり内臓に感染馬特有の病変をきたしていた)。

この伝貧感染馬への殺処分命令については、当該患畜がたとえいかなる歴史的名馬や優秀繁殖馬であったとしても免れ得ない。日本の名馬の代表格と言うべき歴代の日本ダービー馬でもクモハタ、マツミドリがこの疾病に感染し殺処分命令を受け命を落している(他には自然死とされているがイエリユウの死因にも伝貧関連説がある)。他にも、桜花賞馬のヤシマドオター、優駿牝馬勝ち馬のヤシマヒメも馬伝染性貧血の犠牲馬である。

馬類以外には感染しない病気であるため、獣医学術的な見地からの研究は遅々として進まなかったが、1965年に東京競馬場で本疾病の集団感染騒動が発生したのを契機として日本中央競馬会などを中心に1960年代後半に大規模な研究が進められ、これによって確定診断法として血清診断法、寒天ゲル内沈降試験という技術が確立された。それ以降は予防と清浄化に努め、現在の日本国内では存在しない病気となっている。ただし、近年でも抗体陽性馬についてはまれに見つかる事がある。

この診断法が確立される以前には、1952年冬の京都競馬場の伝貧騒動でクモワカ(繁殖名:丘高。桜花賞馬ワカクモの母、天皇賞馬テンポイントの祖母)に対する誤診断による殺処分命令などという出来事も発生し、これは繁殖馬としてのクモワカとその子供たちの馬名登録を巡って訴訟問題にまで至った(詳細はワカクモの項を参照)。

かつては世界中に蔓延した馬疾病であるが、清浄化の進展により流行地域は減少しつつある。日本国内でも中央競馬では1978年、国内全体でも1993年に岩手県で農用馬2頭が摘発されたものが現在は最後で、これ以降、本疾病の感染による摘発は発生していない。

しかし、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなど南米地域にはまだ多くの感染馬がいるとされる。また、日本とはサラブレッドやショーホースなどの往来が多い欧米やオーストラリアでは現在でもしばしば感染馬の摘発が見られており、この疾病の侵入に対する警戒は常時継続する必要がある。


【問題点】
治療方法が存在せず、感染馬を殺処分する事しか対処法もない病気である為、競馬場やトレーニングセンターなどでの集団大量感染が発生すれば、競走馬の大量殺処分などの事態に至る事もある。これらは競馬開催の長期の開催不能にも直結する為、競馬主催者にとっては経営に重大な悪影響を及ぼす要因ともなりうる。また、人気競走馬がこれにより殺処分となった場合、競馬ファンに与えるショックは極めて大きなものになり、様々な影響が発生するのではないかと危惧する者もいる。

現在は中央競馬と地方競馬の垣根を超えた全国規模での交流が盛んとなり、競走馬の輸送も頻繁に行われているため、ひとたび感染が発生すればたちまち競馬関係施設・牧場を問わず全国規模で拡散してしまう危険も指摘されている。

また、日本のサラブレッド馬産や育成は日高地区への集中と依存が極めて大きい為、特に日高地区での伝貧の集団発生は日本の競馬産業全体や北海道の経済にも極めて深刻なダメージを与えかねないものとして、この病気は久しく発生の無い現在でも競馬や馬産の関係者には常に恐れられている。


日本中央競馬会競走馬総合研究所による馬伝染性貧血の解説

(出典:Wikipedia)

マツミドリ(第14回)

マツミドリ

■回数・・・・第14回
■施行日・・・1947年6月8日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:35 0/5
■騎手・・・・田中康三
■調教師・・・茂木為二郎
■馬主・・・・松末博光


【列伝】
マツミドリは日本の競走馬。父・カブトヤマと母・栄幟の間に生まれた鹿毛の牡のサラブレッドである。第14回東京優駿競走(現・東京優駿(日本ダービー))に優勝し父カブトヤマに次ぐ親子2代での日本ダービー制覇を達成した。

農林省賞典(現・皐月賞)2着を経て出走した東京優駿競走では農林省賞典優勝馬トキツカゼに雪辱を果たし優勝した。1945-46年は日本ダービーに当たる競走が中止されており、この年は戦後初の開催であった。また、父・カブトヤマは1933年に第2回東京優駿大競走(日本ダービーにあたる)を制しており親子2代のダービー制覇を達成したことで「ダービー馬はダービー馬から」という言葉が生まれた。ただ、東京優駿競走後は農林省賞典や京都記念に優勝しているものの、マツミドリの東京優駿競走優勝を受けて創設された父を記念する競走であるカブトヤマ記念は6着に敗れている。引退後は種牡馬となったが、1953年に北海道で流行した馬伝染性貧血に罹患し、惜しまれつつ殺処分となる。供用期間が短かったため代表産駒はダイゴ程度。



『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1944年
■死没: 1953年7月28日
■父: カブトヤマ
■母: 栄幟
■生産: 東北牧場
■生国: 日本(青森県上北町)
■馬主: 松末博光
■調教師: 茂木為二郎(東京)
■生涯成績: 23戦9勝
■獲得賞金: 83万2040円

画像無し

(出典:Wikipedia)

カイソウ(第13回)

カイソウ

■回数・・・・第13回
■施行日・・・1944年6月18日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:39 1/5
■騎手・・・・橋本輝雄
■調教師・・・久保田金造
■馬主・・・・有松鉄三


【列伝】
カイソウは第二次世界大戦のさなか日本ダービー(東京能力検定競走)に優勝した日本の競走馬である。長距離特殊競走(現・菊花賞)も1位で入線したが全出走馬がコースを間違えていたため不成立、幻の二冠馬になった。後軍馬として徴用され行方不明となる。

■現在東京優駿(日本ダービー)として行われている競走は、この年馬券発行も一般観客も無い東京能力検定競走として行われた。この記事では便宜上日本ダービーと呼称する。また、馬齢は全て現在の表記に統一する。

■生涯
カイソウは北海道の錦多峯(にしたっぷ)牧場で生まれた。2歳時に札幌のセリに出され、建築業を営む有松鉄三に9千円で落札された。母第二ベバウ(競走名ロンプ)は軽半種ながら帝室御賞典(小倉)優勝馬(全12勝)だった。

久保田金造の元に預けられたカイソウは、3歳になった1944年4月23日、京都競馬場の芝1600mの競走でデビューした。ここはヤマトマスラヲのハナ差2着に敗れたが、5日後のレースで勝利を飾る。その後ほぼ休むことなく走り続け、9戦6勝の好成績を残して日本ダービーに挑んだ。東上に伴い橋本輝雄が騎乗、東京での前哨戦を飾る。

この年は太平洋戦争の戦況が悪化していたこともあり、全国では続々と競馬が中止。横浜競馬場をはじめ、阪神、札幌、函館、新潟、福島と閉鎖され、東京と京都でのみ「能力検定競走」として存在していた。当然そのような状況であるから、この年の日本ダービーは観客は一切おらず、軍人や馬主など関係者200人あまりが見守る中で行なわれた(日本ダービー史上最も観戦者が少ないレースといわれている)。騎手の橋本輝雄は当時を振り返り「スタンドは無人同然でいかにも寂しかった」と語っている。当然ながら馬券の発売もある筈がなく、人気も全くわからなかった。だがカイソウは、前走で東京2400mのレースをレコード勝ちしており、またそのときに評判馬であったクリアヅマを大差で破っていたこともあり、実際発売されていれば相当な人気を集めたものと思われる。

カイソウは重馬場の中、3,4コーナーで先頭に立つとそのまま逃げ切り、2着のシゲハヤに5馬身差をつけて圧勝した。初の北海道産日本ダービー馬の誕生である。なおこのレースには農商省賞典(現・皐月賞)を制したクリヤマトも出走していたが、カイソウから10馬身離された4着に終わっている。騎乗していた橋本輝雄は「ダービー自体初騎乗だったけど、前走でカイソウで古馬に勝っていたから自信が有った」「ダービー初騎乗で初優勝だからうれしかった」と当時を回想している。

その後カイソウは半年ほど休養し、一度叩いて12月8日の長距離特殊競走で二冠に挑む。カイソウはこの競走で1位に入線したが、何とカイソウを始め全ての馬が2周目3コーナーで競走コースを間違えたためレース不成立というアクシデントが起こった。現在では考えられないことであるが、このためカイソウの二冠制覇は幻と消えた。ちなみに、この年の菊花賞は前年の外回り2周から外回り→内回りと周回するものに変更されていたが、出走馬は前年の菊花賞と同じく2周目も外回りを周回してしまったものであった。

長距離特殊競走後カイソウは1戦走るが6着に終わり、現役最後のレースとなった1級種牡馬選定では12着と惨敗。しかも審査の結果、母方の血統にトロッター(スタンダードブレッド)の血が混じっている、すなわち純血のサラブレッドではない「サラ系」であることが判明し、種牡馬失格となってしまった。引退後は国民に対する戦意高揚の意図もあって陸軍により一軍馬として徴用され、後に名古屋の師団に連れて行かれて第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官岡田資の乗馬になり、1945年5月14日の名古屋大空襲による猛火の中、行方不明となってしまった。常識的にいって戦火をくぐり抜けて生存したことはまず考えられないが、死亡していたとしてもその亡骸は未だ見つかっていない。

また、戦中戦後の混乱の中にあって、その後カイソウが生きていると風の噂に伝えられた事はあっても、カイソウの生存に関する正確な記録というものは一切存在しておらず、空襲の中に消えた日本ダービー馬として現在も語られている。

カイソウの辿った末路は戦争が生んだ悲劇、としか言い様がないが、彼だけでなく競馬どころではない時代に生まれたこの世代の馬たちの多くは軍馬とされ戦地へ赴いて戻る事も無く、また競走馬となったものさえほとんどは祝福されることなくこの世を去り、そして競馬、畜産の歴史の影に忘れ去られていった。


【競走成績】
■1944年(13戦8勝)
東京能力検定競走(現・東京優駿、副題 : 日本ダービー)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド系種
■生誕: 1941年
■死没: 不明(1945年5月14日?)
■父: 月友
■母: 第二ベバウ
■生産: 錦多峯牧場
■生国: 日本(北海道苫小牧市)
■馬主: 有松鉄三
■調教師: 久保田金造(京都)
■生涯成績: 13戦8勝
■獲得賞金: 33000円(一部のみ)

カイソウの画像

(出典:Wikipedia)

クリフジ(第12回)

クリフジ

■回数・・・・第12回
■施行日・・・1943年6月6日
■性齢・・・・牝3
■勝時計・・・2:31 4/5
■騎手・・・・前田長吉
■調教師・・・尾形景造
■馬主・・・・栗林友二


【列伝】
クリフジ(幼名及び繁殖名年藤)は戦前を代表する日本の競走馬。牝馬として日本競馬史上唯一のクラシックレース3勝を挙げた。生涯成績11戦11勝は、日本競馬における現在に至るまでの最多全勝記録。1984年に顕彰馬に選出された。


【経歴】
馬齢は旧表記を用いる。

産まれたときに付けられた名(幼名あるいは血統名)は繁殖名と同じく「年藤」だった。旧3歳のときセリ市に出され、そのセリ市にいた栗林商船会長の栗林友二が「顔を見た時、これはいい馬だと思った」と4万円で落札した。これは当時の東京優駿競走の1着賞金が1万円だったことを考えると、相当高額であったことがわかる。

尾形藤吉厩舎に入厩する際、「クリフジ」と命名されデビューを目指していたが、脚元に不安があったため仕上がりが遅れ、1943年4月11日の横濱農林省賞典4歳呼馬には間に合わなかった。結局デビューしたのは5月16日の新呼馬競走であった。騎手は前田長吉で、その後もクリフジに騎乗し続けた。

その後は東京優駿競走(6馬身)、阪神優駿牝馬(10馬身)、京都農商省賞典4歳呼馬(大差)を勝ち変則クラシック三冠を達成した。ほかに横浜記念(10馬身)の勝鞍があり、出走した11戦全勝でしかもそのうち7戦が着差10馬身以上といったすさまじい成績であった。しかも、東京優駿競走はスタートで大きく出遅れてこの結果というから驚きである。このとき鞍上の前田はゴール前で他馬の脚音が全く聞こえなくなったので、何かあったのではないかと気になり、何度も後ろを振り返った。この後、2007年にウオッカが制覇するまでの64年もの間、東京優駿を制覇する牝馬が現れることはなかった。

殆ど圧勝の連続だったクリフジに最も迫ったのは、デビュー戦で戦ったトシシロ(1馬身差)で、母にクレオパトラトマスを持つ良血馬だったトシシロは後に種牡馬として成功した。デビュー戦を除けば最も迫ったのは1歳年上の菊花賞優勝馬でシンザンの母の父にあたるハヤタケだが、ハヤタケにしても3馬身差に詰め寄るのがやっとであり、殆どの馬はクリフジの影すら踏めなかった。他に比較的著名な馬との対戦はヒロサクラ(京都農商省賞典4歳呼馬でクリフジの大差2着)などがいる。1944年、横浜記念を勝ったクリフジはちょうど3週間後の帝室御賞典(春)に出走する予定だった。しかし輸送の際に風邪を引き、現地に着いたら熱を出してしまい、回避せざるを得なくなってしまった。クリフジはそのまま引退、結果的に横浜記念が最後のレースとなってしまった。なお、この帝室御賞典を勝ったのは前述のヒロサクラである。

引退後も繁殖牝馬として活躍し、1964年に老衰により死亡、24歳であった。牝系(ファミリーライン)子孫は現在も残っておりきさらぎ賞を優勝したサムソンビッグ、安田記念とスワンステークスを制覇したシモフサホマレが代表格。

ある雑誌の企画で「日本競馬史上最強馬は?」というアンケートが競馬関係者に対して行われた。関係者からはシンザンやシンボリルドルフなど錚々たる名馬が挙げられる中で、当のシンボリルドルフを管理していた野平祐二調教師は、迷わずクリフジの名を挙げていた。また、年配の競馬ファンの中にも史上最強馬にクリフジの名を上げるものも多い。


『データ』
■性別: 牝
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1940年3月12日
■死没: 1964年9月10日(24歳没)
■父: トウルヌソル
■母: 賢藤
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 栗林友二
■調教師: 尾形藤吉(東京)
生涯成績: 11戦11勝
獲得賞金: 7万3200円

クリフジの画像

(出典:Wikipedia)

ミナミホマレ(第11回)

ミナミホマレ

■回数・・・・第11回
■施行日・・・1942年5月24日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 0/5
■騎手・・・・佐藤邦雄
■調教師・・・東原玉造
■馬主・・・・池得次


【列伝】
ミナミホマレ(1939年 - 1962年)は日本の競走馬・種牡馬。第二次世界大戦中の1942年に、第11回東京優駿競走(日本ダービー)を優勝した。母フロリストはミナミホマレの他に、帝室御賞典優勝馬を4頭も輩出した名繁殖牝馬である。

ミナミホマレの戦績は僅か4戦。デビュー戦を勝つと皐月賞に当たる横浜農林省賞典4歳呼馬でアルバイト(後クリヒカリに改名)の2着に入っている。そして東京優駿競走の2週前に1戦を叩いて東京優駿競走に挑んだ。アルバイトが最後の直線で抜け出したが、ミナミホマレが一気に襲いかかりクビ差交わしてレコードタイムで優勝した。ミナミホマレはこのレースが最後の競走になったが、種牡馬として青森県の太平牧場、大塚牧場を経てタイヘイ牧場で供用され、ゴールデンウエーブ、ダイゴホマレの2頭の東京優駿優勝馬を輩出するなど成功した。ニホンピローエースの母の父でもある。


【競走成績】
■1942年(4戦3勝)
東京優駿競走(日本ダービー)、2着 - 横浜農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1939年3月31日
■死没: 1962年9月
■父: プリメロ
■母: フロリスト
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 池得次
■調教師: 東原玉造(中山)
■生涯成績: 4戦3勝
■獲得賞金: 3万2400円


ミナミホマレの画像(右端)

(出典:Wikipedia)

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