ボストニアン(第20回)

ボストニアン

■回数・・・・第20回
■施行日・・・1953年5月24日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:34 3/5
■騎手・・・・蛯名武五郎
■調教師・・・増本勇
■馬主・・・・岡本治一


【列伝】
ボストニアンは、日本の競走馬。1953年に皐月賞、東京優駿(日本ダービー)に優勝し二冠を達成した。名種牡馬セフトの最終世代の産駒である。


■戦跡
7番人気の低評価で皐月賞を制すと、この年新設されたNHK杯にも勝ち東京優駿に出走。この年の東京優駿は33頭が出走(確定出走頭数は35頭で、当日2頭取り消した)する史上最多頭数で行われ、その中の3頭が落馬するという大混戦となった。この中で1番人気に押されたボストニアンは直線鋭く追い込みダイサンホウシユウ以下に2馬身の差をつけ優勝した。

春に二冠を制したことでセントライト以来12年ぶりとなる三冠に挑戦する。10月に復帰するとまずオープンを3連勝。この3連戦で皐月賞2着馬ハクリヨウ、東京優駿2着馬ダイサンホウシユウを易々と降し三冠達成にに死角はないと思われていたが、ハクリヨウは菊花賞に向けて急激に力をつけてきており3馬身半差敗れ三冠はならなかった。

翌1954年は、鳴尾記念(秋)と阪神記念をレコードで制すなどそこそこの活躍を見せたが、天皇賞(春)でライバル・ハクリヨウに再び敗れ、この年を最後に引退した。


■引退後
引退後は種牡馬となり、セフトの後継種牡馬として人気を集めるも、全くと言ってよいほど活躍馬を出せず完全に失敗に終わった。種牡馬としての唯一の功績は、後に名牝系を築くアサマユリのみである。(アサマユリはメジロマックイーンの曾祖母にあたる。)


『データ』
■品種: サラブレッド
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■生誕: 1950年5月13日
■死没: 1967年
■父: セフト
■母: 神正
■生国: 日本(北海道浦河町)
■生産: ヤシマ牧場
■馬主: 岡本治一
■調教師: 増本勇(京都)
■生涯成績: 28戦16勝
■獲得賞金: 849万1700円

画像無し

(出典:Wikipedia)



クリノハナ(第19回)

クリノハナ

■回数・・・・第19回
■施行日・・・1952年5月25日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:31 4/5
■騎手・・・・八木沢勝美
■調教師・・・尾形藤吉
■馬主・・・・栗林友二


【列伝】
クリノハナは、日本の競走馬。1952年の皐月賞と東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成した。

デビュー以来の4連勝で皐月賞に優勝しオープン3着を挟んで東京優駿に出走した。単勝1番人気は牝馬ながら朝日杯3歳ステークスに勝ち、皐月賞で2着に入ったタカハタ、2番人気はセントライト産駒で後に菊花賞に優勝するセントオー、3番人気に皐月賞優勝馬クリノハナの順であった。最後の直線コースで抜け出すと猛追するタカハタをクビ差(→着差を参照)凌いで二冠を達成した。秋は三冠を目指すも調子を崩し菊花賞に出走せず引退した。

引退後は種牡馬となり、クリペロ、タカマガハラ、クリヒデの3頭の天皇賞優勝馬を出すなど成功した。


【主な産駒】
■クリペロ(天皇賞(春))
■タカマガハラ(天皇賞(秋))
■クリヒデ(天皇賞(秋))
■チドリ(クイーンステークス)
■クリデイ(シンザンを破る)
■クリバン(東京牝馬特別)
■クリライト(京王杯スプリングハンデキャップ)
■クリベイ(函館記念、クモハタ記念)
■メジロアサヒ(クイーンステークス)
■クイントツプ(東京障害特別(秋))
■オーロラ(東京障害特別(秋))


『データ』
■品種: サラブレッド
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■生誕: 1949年5月18日
■死没: 1965年9月29日
■父: プリメロ
■母: オホヒカリ
■生国: 日本(千葉県市原市)
■生産: 大東牧場
■馬主: 栗林友二
■調教師: 尾形藤吉(東京)
■生涯成績: 11戦5勝
■獲得賞金: 316万9500円

画像無し

(出典:Wikipedia)

トキノミノル(第18回)

トキノミノル

■回数・・・・第18回
■施行日・・・1951年6月3日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:31 1/5
■騎手・・・・岩下密政
■調教師・・・田中和一郎
■馬主・・・・永田雅一


【列伝】
トキノミノル(1948年 - 1951年)は日本の競走馬である。本桐牧場生産。旧名パーフェクト。オーナーは映画会社・大映の社長でプロ野球チームオーナーでもあった永田雅一。1984年(顕彰馬制度設立の年度)に顕彰馬に選出された。


■戦績
戦績は朝日杯三歳ステークス・皐月賞・東京優駿(日本ダービー)など、10戦10勝(7レコード)。デビュー当時の登録名は「パーフェクト」であり、デビュー戦を8馬身差のレコード勝ちし、圧倒的なその強さに「菊池寛の夢が実る時が来た」と言う意味で「トキノミノル」という名に改められた(現在は一度馬名を登録すると変更はできないが、当時は可能であった)。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名である。菊池寛は永田と親交があったが、この時にはすでに亡くなっていた。

その後皐月賞や東京優駿でもレコード勝ちをする。二着馬との差が最も縮まったのが東京優駿の時の1馬身半で、それ以外のレースは全て二馬身以上の差をつける圧勝だった。皐月賞の単勝支持率73.3%は、2007年現在でも史上1位である。また、慢性的な膝の疾患や裂蹄を抱えていたため、最後のレースとなった東京優駿では爪と蹄鉄の間にフェルトを挟んで出走した。そのあまりの強さに、アメリカ遠征のプランもあがったほどであった。

三冠確実とも言われていたが、東京優駿の17日後の1951年6月20日に破傷風を発症し死亡。


■逸話
東京優駿優勝後、関係者がコース内で記念撮影をしていたところ、スタンドの柵が壊れ、大勢の観客が馬場内に入って記念撮影に納まった。この光景を大川慶次郎は「競馬が大衆化した瞬間」であったと述懐している。

現在でも本馬に付いて回る『幻の馬』という異名は、少女小説作家で馬主でもあった吉屋信子が寄せた追悼文「初出走以来10戦10勝、目指す日本ダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとる為に産まれた幻の馬だ」に由来する。「幻の三冠馬」や「幻の○○馬(○○はレース名)」という肩書きを持つ馬は数多くいるが、「幻の馬」という肩書きはトキノミノルに対してしか使われない。1955年には馬主である永田の手によって映画『幻の馬』も製作された。

また、馬主の永田も破傷風を発症した際、「ダービーの賞金を全て使ってもいいから治してくれ」と医者に頼み込んだのも有名な話。

死因となった破傷風にいては、現在ではウマ用ワクチンが広く使用されているが、当時はヒト用のものさえ日本には存在せず、命を落とすこととなってしまった。


■現在
その功績を称えて東京競馬場には石像(現在は銅像)が建立され、毎年2月の明け満3歳による重賞競走「共同通信杯(2000年までは数え馬齢だったので共同通信杯4歳ステークス)」は、サブタイトルとしてその名を冠しトキノミノル記念となっている。中央競馬で現在もレース名に名前が冠されているのはトキノミノル、セントライト、シンザンの三頭のみである(2004年のゴールデンジュビリーキャンペーンでのみ使用された競走馬は除く)。また、以前はクモハタ記念、カブトヤマ記念という重賞競走も行われていた。


■血統について
3×4のクロスとなっているThe Tetrarchは伝説的な挿話を多数残す稀代の快足馬であり、当時の日本では規格外のトキノミノルのスピードはこのインブリードによるところが大きいとされ、競走馬の血統理論や配合理論における、いわゆる『奇跡の血量18.75%』という概念の発端になったとされる。

トキノミノル自身は子孫を残すことができなかったが、全姉のダーリングはグリーングラスの三代母(曾祖母)であり、ここを通して現代の競馬にも細いながらその血を残している。


『データ』
■品種: サラブレッド
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■生誕: 1948年5月2日
■死没: 1951年6月20日(3歳没・旧4歳)
■父: セフト
■母: 第二タイランツクヰーン
■母の父: Soldennis
■生国: 日本(北海道三石町)
■生産: 本桐牧場
■馬主: 永田雅一
■調教師: 田中和一郎(東京)
■生涯成績: 10戦10勝(レコード7回)
■獲得賞金: 425万7150円

トキノミノル像の画像

(出典:Wikipedia)

クモノハナ(第17回)

クモノハナ

■回数・・・・第17回
■施行日・・・1950年6月11日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:44 2/5
■騎手・・・・橋本輝雄
■調教師・・・鈴木勝太郎
■馬主・・・・北竹清剛


【列伝】
クモノハナは日本の競走馬。終戦間もない1950年に皐月賞、東京優駿(日本ダービー)の二冠を達成した。

GHQによる財閥解体の影響で1949年に競走馬生産を中止した小岩井農場が生産した最後のダービー馬である(6頭目)。

クモノハナは僅か1勝で皐月賞に挑んでいるが、当時は終戦から5年しか経っておらず馬資源の不足も深刻であったため、特に珍しいというわけではなかった。2歳時には未勝利の身で朝日杯3歳ステークス(9頭立て最下位)に挑んでおり、活躍馬カネフブキ、シマタカの弟ということで期待されていた。迎えた皐月賞は不良馬場も味方し2番人気ハイレコードに4馬身差をつけ優勝している。そして東京優駿では前哨戦となるオープンを楽勝、調子も上昇の一途を辿り1番人気に推された。馬場は皐月賞に続いて不良となりクモノハナは持ち味を生かしてキミガヨを相手に快勝した。

ちなみに、この時ひとつの出来事が起きた。東京優駿の前夜に騎乗予定の橋本輝雄騎手がNHKの出演依頼を受けてラジオ番組『二十の扉』に出演、「ダービーには勝てるでしょう」と、つい勝利を予告してしまったのである。現在は騎手の予想行為は競馬法で禁止されているが、当時はその規制が無く、また、現在の調整ルームへの前日集合という制度も無かった為、この様なラジオ出演も可能であった。だが、クモノハナが絶対的に得意とする雨天の不良馬場が間違いない気象条件であったとはいえ、当時はテレビも無く、最大のメディアであったラジオで発言してしまっただけに、事の重大さに気づいた橋本は緊張で前夜は全く眠れなかったという。だが、橋本は見事にその言葉を実現させ、自身も史上初の東京優駿2勝騎手となった。

秋は2連勝で菊花賞に出走、セントライト以来の三冠へ挑戦する。だが菊花賞は良馬場、ハイレコードのレコードの前にアタマ差敗れ三冠はならなかった。その後は10戦3勝の成績に終わり引退、種牡馬入り。クロシオ( 中山大障害(春))を出すにとどまり、 1959年に廃用。

なお二年後に登場するクリノハナはクモノハナと同じプリメロ産駒の二冠馬であり、名前が似ているため混同されやすい。


『データ』
■品種:サラブレッド
■性別:牡
■毛色:黒鹿毛
■生誕:1947年
■死没:不明(1959年廃用)
■父:プリメロ
■母:第参マンナ
■生国:日本(岩手県雫石町)
■生産:小岩井農場
■馬主:北竹清剛氏
■調教師:鈴木勝太郎(東京)
■生涯成績:28戦9勝
■獲得賞金:340万2380円

画像無し

(出典:Wikipedia)

タチカゼ(第16回)

タチカゼ

■回数・・・・第16回
■施行日・・・1949年6月5日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 4/5
■騎手・・・・近藤武夫
■調教師・・・伊藤勝吉
■馬主・・・・熊谷八郎


【列伝】
タチカゼ(1946年 - 1965年2月22日)は日本の競走馬。父プリメロと母第参パプースの間に生まれた鹿毛の牡のサラブレッドである。第16回優駿競走(現東京優駿、日本ダービー)に優勝した。小岩井農場の生産馬である。

1948年11月13日にデビューしたタチカゼは優駿競走までに7戦2勝、前走も全くいいところ無く敗れ、その結果に呆れた伊藤勝吉調教師が関西に帰った事もあり、評価ガタ落ちで23頭立て19番人気と言う低評価となった。だが、肝心のレースは1番人気の皐月賞優勝馬トサミドリが鞍上の無茶な騎乗が祟り7着に沈んだ事もあり、12番人気の牝馬・シラオキ(引退後、二冠馬コダマの母となる)に半馬身差をつけ優勝した。この時の単勝配当55430円・複勝9230円は、八大競走史上最高配当として今なお破られていない。タチカゼに見切りをつけ関西に帰った伊藤調教師は、この知らせに腰を抜かしたと言う。

タチカゼはこの後オープン競走ばかりに4勝。菊花賞ではトサミドリの前に4着に敗れたが、引退レースでは11連勝を達成したトサミドリを下している。


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1946年
■死没: 1965年2月22日
■父: プリメロ
■母: 第参パプース
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 熊谷八郎
■調教師: 伊藤勝吉(京都)
■生涯成績: 16戦7勝
■獲得賞金: 178万8400円

画像無し

(出典:Wikipedia)

ミハルオー(第15回)

ミハルオー

■回数・・・・第15回
■施行日・・・1948年6月6日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 2/5
■騎手・・・・新屋幸吉
■調教師・・・上村大治郎
■馬主・・・・石川了吉


【列伝】
ミハルオーは日本の競走馬。父月友と母第参フラッシングラスの間に生まれた栗毛の牡のサラブレッドである。第15回優駿競走(現東京優駿・日本ダービー)に優勝したほか天皇賞(春)にも優勝した。

デビュー7連勝の後農林省賞典(現皐月賞)でヒデヒカリの3着に敗れたが、優駿競走ではゲートで暴れて大外発走になったにもかかわらず2馬身差で快勝した。その後しばらくは精彩を欠いていたが天皇賞(春)で復活を遂げると4連勝をあげ引退した。種牡馬入り後は中山大障害(春)優勝馬キタノイヅミ等の産駒を輩出している。


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1945年
■死没: 1956年
■父: 月友
■母: 第参フラッシングラス
■生産: 富岡牧場
■生国: 日本(北海道浦河町)
■馬主: 石川了吉
■調教師: 上村大治郎(東京)
■久保田金造(京都)
■生涯成績: 19戦13勝
■獲得賞金: 221万9060円

画像無し

(出典:Wikipedia)

マツミドリ(第14回)

マツミドリ

■回数・・・・第14回
■施行日・・・1947年6月8日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:35 0/5
■騎手・・・・田中康三
■調教師・・・茂木為二郎
■馬主・・・・松末博光


【列伝】
マツミドリは日本の競走馬。父・カブトヤマと母・栄幟の間に生まれた鹿毛の牡のサラブレッドである。第14回東京優駿競走(現・東京優駿(日本ダービー))に優勝し父カブトヤマに次ぐ親子2代での日本ダービー制覇を達成した。

農林省賞典(現・皐月賞)2着を経て出走した東京優駿競走では農林省賞典優勝馬トキツカゼに雪辱を果たし優勝した。1945-46年は日本ダービーに当たる競走が中止されており、この年は戦後初の開催であった。また、父・カブトヤマは1933年に第2回東京優駿大競走(日本ダービーにあたる)を制しており親子2代のダービー制覇を達成したことで「ダービー馬はダービー馬から」という言葉が生まれた。ただ、東京優駿競走後は農林省賞典や京都記念に優勝しているものの、マツミドリの東京優駿競走優勝を受けて創設された父を記念する競走であるカブトヤマ記念は6着に敗れている。引退後は種牡馬となったが、1953年に北海道で流行した馬伝染性貧血に罹患し、惜しまれつつ殺処分となる。供用期間が短かったため代表産駒はダイゴ程度。



『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1944年
■死没: 1953年7月28日
■父: カブトヤマ
■母: 栄幟
■生産: 東北牧場
■生国: 日本(青森県上北町)
■馬主: 松末博光
■調教師: 茂木為二郎(東京)
■生涯成績: 23戦9勝
■獲得賞金: 83万2040円

画像無し

(出典:Wikipedia)

カイソウ(第13回)

カイソウ

■回数・・・・第13回
■施行日・・・1944年6月18日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:39 1/5
■騎手・・・・橋本輝雄
■調教師・・・久保田金造
■馬主・・・・有松鉄三


【列伝】
カイソウは第二次世界大戦のさなか日本ダービー(東京能力検定競走)に優勝した日本の競走馬である。長距離特殊競走(現・菊花賞)も1位で入線したが全出走馬がコースを間違えていたため不成立、幻の二冠馬になった。後軍馬として徴用され行方不明となる。

■現在東京優駿(日本ダービー)として行われている競走は、この年馬券発行も一般観客も無い東京能力検定競走として行われた。この記事では便宜上日本ダービーと呼称する。また、馬齢は全て現在の表記に統一する。

■生涯
カイソウは北海道の錦多峯(にしたっぷ)牧場で生まれた。2歳時に札幌のセリに出され、建築業を営む有松鉄三に9千円で落札された。母第二ベバウ(競走名ロンプ)は軽半種ながら帝室御賞典(小倉)優勝馬(全12勝)だった。

久保田金造の元に預けられたカイソウは、3歳になった1944年4月23日、京都競馬場の芝1600mの競走でデビューした。ここはヤマトマスラヲのハナ差2着に敗れたが、5日後のレースで勝利を飾る。その後ほぼ休むことなく走り続け、9戦6勝の好成績を残して日本ダービーに挑んだ。東上に伴い橋本輝雄が騎乗、東京での前哨戦を飾る。

この年は太平洋戦争の戦況が悪化していたこともあり、全国では続々と競馬が中止。横浜競馬場をはじめ、阪神、札幌、函館、新潟、福島と閉鎖され、東京と京都でのみ「能力検定競走」として存在していた。当然そのような状況であるから、この年の日本ダービーは観客は一切おらず、軍人や馬主など関係者200人あまりが見守る中で行なわれた(日本ダービー史上最も観戦者が少ないレースといわれている)。騎手の橋本輝雄は当時を振り返り「スタンドは無人同然でいかにも寂しかった」と語っている。当然ながら馬券の発売もある筈がなく、人気も全くわからなかった。だがカイソウは、前走で東京2400mのレースをレコード勝ちしており、またそのときに評判馬であったクリアヅマを大差で破っていたこともあり、実際発売されていれば相当な人気を集めたものと思われる。

カイソウは重馬場の中、3,4コーナーで先頭に立つとそのまま逃げ切り、2着のシゲハヤに5馬身差をつけて圧勝した。初の北海道産日本ダービー馬の誕生である。なおこのレースには農商省賞典(現・皐月賞)を制したクリヤマトも出走していたが、カイソウから10馬身離された4着に終わっている。騎乗していた橋本輝雄は「ダービー自体初騎乗だったけど、前走でカイソウで古馬に勝っていたから自信が有った」「ダービー初騎乗で初優勝だからうれしかった」と当時を回想している。

その後カイソウは半年ほど休養し、一度叩いて12月8日の長距離特殊競走で二冠に挑む。カイソウはこの競走で1位に入線したが、何とカイソウを始め全ての馬が2周目3コーナーで競走コースを間違えたためレース不成立というアクシデントが起こった。現在では考えられないことであるが、このためカイソウの二冠制覇は幻と消えた。ちなみに、この年の菊花賞は前年の外回り2周から外回り→内回りと周回するものに変更されていたが、出走馬は前年の菊花賞と同じく2周目も外回りを周回してしまったものであった。

長距離特殊競走後カイソウは1戦走るが6着に終わり、現役最後のレースとなった1級種牡馬選定では12着と惨敗。しかも審査の結果、母方の血統にトロッター(スタンダードブレッド)の血が混じっている、すなわち純血のサラブレッドではない「サラ系」であることが判明し、種牡馬失格となってしまった。引退後は国民に対する戦意高揚の意図もあって陸軍により一軍馬として徴用され、後に名古屋の師団に連れて行かれて第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官岡田資の乗馬になり、1945年5月14日の名古屋大空襲による猛火の中、行方不明となってしまった。常識的にいって戦火をくぐり抜けて生存したことはまず考えられないが、死亡していたとしてもその亡骸は未だ見つかっていない。

また、戦中戦後の混乱の中にあって、その後カイソウが生きていると風の噂に伝えられた事はあっても、カイソウの生存に関する正確な記録というものは一切存在しておらず、空襲の中に消えた日本ダービー馬として現在も語られている。

カイソウの辿った末路は戦争が生んだ悲劇、としか言い様がないが、彼だけでなく競馬どころではない時代に生まれたこの世代の馬たちの多くは軍馬とされ戦地へ赴いて戻る事も無く、また競走馬となったものさえほとんどは祝福されることなくこの世を去り、そして競馬、畜産の歴史の影に忘れ去られていった。


【競走成績】
■1944年(13戦8勝)
東京能力検定競走(現・東京優駿、副題 : 日本ダービー)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド系種
■生誕: 1941年
■死没: 不明(1945年5月14日?)
■父: 月友
■母: 第二ベバウ
■生産: 錦多峯牧場
■生国: 日本(北海道苫小牧市)
■馬主: 有松鉄三
■調教師: 久保田金造(京都)
■生涯成績: 13戦8勝
■獲得賞金: 33000円(一部のみ)

カイソウの画像

(出典:Wikipedia)

クリフジ(第12回)

クリフジ

■回数・・・・第12回
■施行日・・・1943年6月6日
■性齢・・・・牝3
■勝時計・・・2:31 4/5
■騎手・・・・前田長吉
■調教師・・・尾形景造
■馬主・・・・栗林友二


【列伝】
クリフジ(幼名及び繁殖名年藤)は戦前を代表する日本の競走馬。牝馬として日本競馬史上唯一のクラシックレース3勝を挙げた。生涯成績11戦11勝は、日本競馬における現在に至るまでの最多全勝記録。1984年に顕彰馬に選出された。


【経歴】
馬齢は旧表記を用いる。

産まれたときに付けられた名(幼名あるいは血統名)は繁殖名と同じく「年藤」だった。旧3歳のときセリ市に出され、そのセリ市にいた栗林商船会長の栗林友二が「顔を見た時、これはいい馬だと思った」と4万円で落札した。これは当時の東京優駿競走の1着賞金が1万円だったことを考えると、相当高額であったことがわかる。

尾形藤吉厩舎に入厩する際、「クリフジ」と命名されデビューを目指していたが、脚元に不安があったため仕上がりが遅れ、1943年4月11日の横濱農林省賞典4歳呼馬には間に合わなかった。結局デビューしたのは5月16日の新呼馬競走であった。騎手は前田長吉で、その後もクリフジに騎乗し続けた。

その後は東京優駿競走(6馬身)、阪神優駿牝馬(10馬身)、京都農商省賞典4歳呼馬(大差)を勝ち変則クラシック三冠を達成した。ほかに横浜記念(10馬身)の勝鞍があり、出走した11戦全勝でしかもそのうち7戦が着差10馬身以上といったすさまじい成績であった。しかも、東京優駿競走はスタートで大きく出遅れてこの結果というから驚きである。このとき鞍上の前田はゴール前で他馬の脚音が全く聞こえなくなったので、何かあったのではないかと気になり、何度も後ろを振り返った。この後、2007年にウオッカが制覇するまでの64年もの間、東京優駿を制覇する牝馬が現れることはなかった。

殆ど圧勝の連続だったクリフジに最も迫ったのは、デビュー戦で戦ったトシシロ(1馬身差)で、母にクレオパトラトマスを持つ良血馬だったトシシロは後に種牡馬として成功した。デビュー戦を除けば最も迫ったのは1歳年上の菊花賞優勝馬でシンザンの母の父にあたるハヤタケだが、ハヤタケにしても3馬身差に詰め寄るのがやっとであり、殆どの馬はクリフジの影すら踏めなかった。他に比較的著名な馬との対戦はヒロサクラ(京都農商省賞典4歳呼馬でクリフジの大差2着)などがいる。1944年、横浜記念を勝ったクリフジはちょうど3週間後の帝室御賞典(春)に出走する予定だった。しかし輸送の際に風邪を引き、現地に着いたら熱を出してしまい、回避せざるを得なくなってしまった。クリフジはそのまま引退、結果的に横浜記念が最後のレースとなってしまった。なお、この帝室御賞典を勝ったのは前述のヒロサクラである。

引退後も繁殖牝馬として活躍し、1964年に老衰により死亡、24歳であった。牝系(ファミリーライン)子孫は現在も残っておりきさらぎ賞を優勝したサムソンビッグ、安田記念とスワンステークスを制覇したシモフサホマレが代表格。

ある雑誌の企画で「日本競馬史上最強馬は?」というアンケートが競馬関係者に対して行われた。関係者からはシンザンやシンボリルドルフなど錚々たる名馬が挙げられる中で、当のシンボリルドルフを管理していた野平祐二調教師は、迷わずクリフジの名を挙げていた。また、年配の競馬ファンの中にも史上最強馬にクリフジの名を上げるものも多い。


『データ』
■性別: 牝
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1940年3月12日
■死没: 1964年9月10日(24歳没)
■父: トウルヌソル
■母: 賢藤
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 栗林友二
■調教師: 尾形藤吉(東京)
生涯成績: 11戦11勝
獲得賞金: 7万3200円

クリフジの画像

(出典:Wikipedia)

ミナミホマレ(第11回)

ミナミホマレ

■回数・・・・第11回
■施行日・・・1942年5月24日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 0/5
■騎手・・・・佐藤邦雄
■調教師・・・東原玉造
■馬主・・・・池得次


【列伝】
ミナミホマレ(1939年 - 1962年)は日本の競走馬・種牡馬。第二次世界大戦中の1942年に、第11回東京優駿競走(日本ダービー)を優勝した。母フロリストはミナミホマレの他に、帝室御賞典優勝馬を4頭も輩出した名繁殖牝馬である。

ミナミホマレの戦績は僅か4戦。デビュー戦を勝つと皐月賞に当たる横浜農林省賞典4歳呼馬でアルバイト(後クリヒカリに改名)の2着に入っている。そして東京優駿競走の2週前に1戦を叩いて東京優駿競走に挑んだ。アルバイトが最後の直線で抜け出したが、ミナミホマレが一気に襲いかかりクビ差交わしてレコードタイムで優勝した。ミナミホマレはこのレースが最後の競走になったが、種牡馬として青森県の太平牧場、大塚牧場を経てタイヘイ牧場で供用され、ゴールデンウエーブ、ダイゴホマレの2頭の東京優駿優勝馬を輩出するなど成功した。ニホンピローエースの母の父でもある。


【競走成績】
■1942年(4戦3勝)
東京優駿競走(日本ダービー)、2着 - 横浜農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1939年3月31日
■死没: 1962年9月
■父: プリメロ
■母: フロリスト
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 池得次
■調教師: 東原玉造(中山)
■生涯成績: 4戦3勝
■獲得賞金: 3万2400円


ミナミホマレの画像(右端)

(出典:Wikipedia)

セントライト(第10回)

セントライト

■回数・・・・第10回
■施行日・・・1941年5月18日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:40 1/5
■騎手・・・・小西喜蔵
■調教師・・・田中和一郎
■馬主・・・・加藤雄策


【列伝】
セントライト(1938年 - 1965年)は、日本の競走馬・種牡馬。1941年に活躍し、同年日本競馬史上初のクラシック三冠馬となった。1984年顕彰馬に選出。

兄弟は優秀で、タイホウ(帝室御賞典、目黒記念、オールカマー)、クリヒカリ(別名アルバイト、横濱農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)、帝室御賞典(秋))、トサミドリ(大種牡馬、皐月賞、菊花賞)等がいる。


【戦績】
1941年、横濱農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)、東京優駿競走、京都農林省賞典4歳呼馬(現:菊花賞)を勝ち、日本の競走馬として初めてクラシック三冠馬となった。

重馬場を得意とし、重ハンデにも良く耐えた。また、東京優駿競走を勝利した時には4連闘目かつ8馬身差の圧勝だった(2006年現在も日本ダービー最大着差)。まさに日本競馬創成期の名馬と言える。

その業績を称えて、菊花賞の関東のトライアルレースとして、1951年から「セントライト記念」を開催している(1964年ラジオ関東(現RFラジオ日本)から優勝杯が寄贈され「ラジオ日本賞」の冠が入った)。

三冠達成後、関係者は重ハンデを背負う事を嫌い天皇賞に挑戦する事無く引退。生まれ故郷の小岩井農場に戻り種牡馬生活を送ることになる。当初はオーライト(平和賞・現在の天皇賞(春))、オーエンス(天皇賞(春))、セントオー(菊花賞)等の八大競走勝ち馬を輩出したものの、小岩井農場を経営していた小岩井農牧(株)が、GHQの命令によりサラブレッドの生産から撤退することになり、1949年にセントライトも岩手県畜産試験場に移ったが、繁殖牝馬の質が低下した事もあり種牡馬成績を落としてしまう。

1965年2月1日、老衰のため同試験場で死亡。シンザンの、自身に次ぐ史上二頭目の三冠達成から数ヶ月後の事だった。1984年、顕彰馬に選出された。


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1938年4月2日
■死没: 1965年2月1日(27歳没)
■父: ダイオライト
■母: フリッパンシー
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 加藤雄策
■調教師: 田中和一郎
■生涯成績: 12戦9勝
■獲得賞金: 87,400円

セントライトの画像

(出典:Wikipedia)

イエリユウ(第9回)

イエリユウ

■回数・・・・第9回
■施行日・・・1940年6月2日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:34 2/5
■騎手・・・・末吉清
■調教師・・・石門虎吉
■馬主・・・・石田一


【列伝】
イエリユウ(1937年 - 1941年)は、日本の競走馬である。1940年に第9回東京優駿競走(日本ダービー)に優勝した。全兄にタエヤマ(東京優駿競走2着)がいる。

生涯成績は16戦6勝。獲得賞金は4万4902円である。デビューから5戦目に5万6507人の観客を集めた東京優駿競走に出走し、1勝馬の身ながらミナミをハナ差下して優勝した。秋には京都農林省賞典4歳呼馬(現菊花賞)でも4着と好走している。京都農林省賞典4歳呼馬後は年末にかけて5戦3勝2着2回と調子を上げていたが、小倉で2連勝の後、急性脳膜炎を発症しそのまま死亡した。なお、この馬の死因については馬伝染性貧血が関連する脳膜炎ではないかという説もある。また、主戦騎手であった末吉清騎手も、後を追う様に夭折した。


【競走成績】
■1940年(16戦6勝)
東京優駿競走(日本ダービー)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1937年2月20日
■死没: 1941年1月13日
■父: トウルヌソル
■母: 山妙
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 石田一
■調教師: 石門虎吉(阪神)
■生涯成績: 16戦6勝
■獲得賞金: 44,902円

イエリユウの画像

(出典:Wikipedia)

クモハタ(第8回)

クモハタ

■回数・・・・第8回
■施行日・・・1939年5月28日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:36 1/5
■騎手・・・・阿部正太郎
■調教師・・・田中和一郎
■馬主・・・・加藤雄策


【列伝】
クモハタ(1936年 - 1953年)は、父トウルヌソル(Tournesol )と母星旗(Fairy Maiden)の間に生まれた栗毛の牡馬。競走成績、種牡馬成績が認められ1984年に顕彰馬に選出された。半姉にクレオパトラトマス(別名月城、帝室御賞典優勝)がいる。

気性と体質、さらに脚元には蹄叉腐乱(ていさふらん)などの問題を抱え、さらに初勝利が東京優駿競走(日本ダービー)の2日前だったが鼻から豆乳を局部注射するなどの努力により東京優駿競走を制した。以後は大競走に勝てず生涯成績は21戦9勝。東京優駿競走を勝ったものの競走成績は超一流とは言い難く、顕彰馬入りしたのは種牡馬成績によるところが大きい。その種牡馬成績は1952年から1957年まで6年連続でリーディングサイアーを獲得するなど非常に優れたもので、代表産駒はGI級競走を勝利したものだけでもメイヂヒカリ(顕彰馬、1956年啓衆社賞年度代表馬)など12頭。

1953年に浦河地区が襲われた馬伝染性貧血流行の際、これに罹患したという診断が下り殺処分命令が出され、惜しまれつつも殺処分となる。享年18だった。

1951年からクモハタを記念して中山競馬場でTBS賞クモハタ記念(1959年まで2000メートル、以後1800メートル)が行われたが、1981年のジャパンカップ設立に伴い1980年限りで廃止された。


【競走成績】
■1939年(11戦5勝)
東京優駿競走、3着 - 横浜農賞

■1940年(10戦4勝)
2着 - 帝室御賞典(秋)、横浜農賞、3着 - 帝室御賞典(春)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1936年3月4日
■死没: 1953年9月10日(17歳没)
■父: トウルヌソル
■母: 星旗
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 加藤雄策
■調教師: 田中和一郎(東京)
■生涯成績: 21戦9勝
■獲得賞金: 7万4414円

クモハタの画像(13番)

(出典:Wikipedia)

スゲヌマ(第7回)

スゲヌマ

■回数・・・・第7回
■施行日・・・1938年5月29日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:33 2/5
■騎手・・・・中村広
■調教師・・・中村広
■馬主・・・・千明賢治


【列伝】
スゲヌマ(別名:カーネーシービー)は日本の競走馬。第二次世界大戦目前の1939年に第7回東京優駿競走(日本ダービー)に優勝した。名前の由来は群馬県にある菅沼より。

馬主である千明賢治の息子、千明康は1963年にメイズイで、孫の千明大作は1983年にミスターシービーでそれぞれ日本ダービーに当たる競走を勝っており、馬主の親子三代での日本ダービー勝利は今のところ唯一の例である。また、スゲヌマは3代母アピアランスの血統が不明のサラブレッド系種で、当時は血統管理が甘くこのような馬が多く存在した。


《戦績》
デビュー3戦目から4連勝で東京優駿競走に優勝。この年から日本競馬会が発足しており、日本競馬会が主催する日本ダービーに当たる競走の最初の勝ち馬になった。

東京優駿競走以後も活躍し、翌年には5連勝で帝室御賞典(春)に優勝、他に横浜農賞にも優勝しているが、11月に行われた目黒記念(秋)で1位で入選するものの後に興奮剤の私用が発覚し失格となる事件を起こしている。結局この事件が元で目黒記念を最後に引退することとなり、カーネーシービーの名で種牡馬入りした。1943年には日高種畜牧場に移り元の名スゲヌマで繋用されたが1945年に廃用。終戦直後の混乱期の中行方不明となった。500kg近い大型馬で、後に主戦騎手兼調教師の中村広は当時を振り返り、「柄は大きいが気分屋、調教では走ったけどレースではその日の風まかせだったね」と語っていた。


【競走成績】
■1938年(11戦4勝)
東京優駿競走(日本ダービー)、2着 - 横浜農賞

■1939年(12戦8勝)
帝室御賞典(春)、横浜特別、横浜農賞


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド系種
■生誕: 1935年4月7日
■死没: 不明(1945年8月廃用)
■父: プライオリーパーク
■母: 国宝
■生産: 千明牧場
■生国: 日本(群馬県片品村)
■馬主: 千明賢治
■調教師: 中村広(東京)→小山内重蔵
■生涯成績: 23戦12勝
■獲得賞金: 8万5154円

スゲヌマの画像

(出典:Wikipedia)

ヒサトモ(第6回)

ヒサトモ

■回数・・・・第6回
■施行日・・・1937年4月29日
■性齢・・・・牝3
■勝時計・・・2:33 3/5
■騎手・・・・中島時一
■調教師・・・中島時一
■馬主・・・・宮崎信太郎


【列伝】
ヒサトモ(繁殖名:久友、1934年 - 1949年)は戦前活躍した日本の競走馬。牝馬として史上初の東京優駿大競走(現在の東京優駿(日本ダービー))制覇を達成した名牝だが、不遇の晩年を送り悲劇の名牝と呼ばれた。6代孫の牝系子孫にトウカイテイオーがいる。半兄に種牡馬として成功した月友がいる。

《戦績》
ヒサトモは関西の騎手兼調教師の中島時一厩舎の所属で、デビュー前から東京優駿大競走(日本ダービー)を狙っていた。しかし中島には関東での調教免許が無かったため関東の大久保房松調教師に管理を依頼し、自身は騎手として携わる事にした。当時はまだ牝馬クラシックも無く、京都農林省典4歳呼馬(菊花賞)と阪神優駿牝馬(オークス)が始まるのは翌年からである。その他1937年(昭和12年)の出来事と言えば、ウォーアドミラルのアメリカクラシック三冠達成や女傑コリーダの凱旋門賞連覇などがある。

3歳3月にデビューしたヒサトモは初戦こそ3着に敗れるが2戦目で勝ち上がると、3戦目も後の秋の帝室御賞典(現在の天皇賞)優勝馬ハツピーマイトを下してレコードで連勝。続いて古馬相手に2着に入り東京優駿大競走に挑む。ここで17頭立ての4番人気に推されたヒサトモは、従来の記録を8秒8も更新するレコード勝ちを収めた。牝馬が東京優駿大競走(日本ダービー)を制したのはこれが初めて。後にクリフジ・ウオッカも勝っているが、牝馬の東京優駿大競走優勝馬は未だにこの3頭しかいない。なお、2着にも牝馬であるサンダーランドが入り、牝馬による1着・2着を飾ったが当然史上唯一の記録である[1]。

秋に復帰したヒサトモは秋の第1回帝室御賞典(天皇賞)でハツピーマイトの3着に入ったものの勝ち切れないレースが続いた。しかし、4歳になって本格化したヒサトモはこの年16戦11勝の活躍振りで2度目の挑戦となった春の帝室御賞典としては再び3着に敗れたが、1番人気に推された秋の帝室御賞典を大差勝ちし、3度目の正直で大きな勲章を手に入れた。2着にも牝馬であるフエアモアが入り、東京優駿大競走に続いての牝馬で1着・2着を独占している。


《引退後》
輝かしい競走実績を残したヒサトモだったが、この年一杯で繁殖入りするとその生涯は暗転してしまう。

繁殖牝馬としては仔出しが悪く、産駒成績も振るわないでいたヒサトモに対し、関係者が取った措置は競馬への復帰であった。当時の馬産の常識では繁殖牝馬に脂肪が付き過ぎると受胎率が下がると考えられており、競走に使う事によって脂肪を落とせば受胎できる体になるのではないかと、当時は年齢制限の無かった地方競馬で走らせる事になったものであった。もっとも、当時の競走馬不足などその他の要因もあったとは思われるが、当時は戦後間もなくの混乱期の上、また、戦争と敗戦のために馬資源が完全に枯渇しきっていたという事情などもあり、15歳の牝馬を競走に用いた事について、現在の価値観をもって関係者を批判することはできない。

15歳になったヒサトモは11年ぶりに当時復興したばかりの地方競馬で現役復帰し、1949年(昭和24年)10月31日の戸塚競馬場での復帰戦は5着。しかし、老いたとはいえ東京優駿大競走をレコードで牡馬を蹴散らせたヒサトモで、11月4日の2戦目には2着入線。次の開催地である柏競馬場に移動して前走から中3日のレースで勝利を上げている。なお、多くの記述がヒサトモは地方競馬で2戦と書いているが、実際には戸塚で2戦、その後に柏で3戦の計5戦を1ヶ月半の間に戦っており、柏では10日間の間に2勝を上げている。

ちなみに現在の感覚で見ればまったく過酷な話であるが、馬資源が極限まで欠乏していた当時の競馬の馬の使い方においては、他馬との比較では決して厳しい使い方とは言い切れない。この時代の地方競馬では、開催期間中は連日連闘を繰り返し2カ月間で20戦近く戦った馬もいるとされる。また連日連闘については当時は国営競馬でもよく見られる事であった[2]。

しかしその後、11月19日に柏競馬場での調教中に非業の死を遂げた(浦和競馬場という説もある)。歴代の日本ダービー優勝馬で調教中に死亡したのは第4回優勝馬のガヴアナー(骨折による予後不良)とこのヒサトモだけである。戦後の混乱期でもあったため、亡骸は行方知れずとなり墓も無い。また戦後ヒサトモが走った戸塚競馬場と柏競馬場も現存しない。

ヒサトモの最後は競馬史に名を残す名馬の最後としてはあまりにも悲しく、救われない最後だった。しかしその後、ヒサトモの血は最後の仔であるブリューリボンにより細々と生き残り、ヒサトモの死から35年後のオークスをトウカイローマンが制覇、さらにトウカイローマンから7年後にはトウカイテイオーが無敗で東京優駿(日本ダービー)を制覇し、一族の怨念を晴らした。ただ、同様の話であるテンポイントの祖母クモワカの伝貧事件と違い、ヒサトモはトウカイテイオーの6代母であるために話題に上ることは少ない。なお15歳6ヶ月での出走は、公式記録として現在まで残るものでは、2006年にオースミレパード(高知競馬所属)によって更新されるまで、長きに渡り日本のサラブレッド系の最高齢出走記録であり続けた。

※注釈
1当時、現在の優駿牝馬(オークス)にあたる阪神優駿牝馬競走は秋季の開催であり、多くの牝馬が東京優駿大競走に出走していた。

2現在は制度上中4日以上間隔をとらなければならないため、連日連闘は不可能になっている


【主な産駒】
《繁殖成績》
■1940年:宮友(ミヤトモ)(牡*セフト)
■1941年:信友(サチトモ)(牝*セフト)
■1944年:正友(ヒサトマン)(牡*セフト)5勝
■1945年:福友(ブリューリボン)(牝*ステーツマン)5勝
■玄孫にトウカイローマン(優駿牝馬(オークス) - GI)、トウカイタロー(新潟記念 - GIII)、来孫にトウカイテイオー(皐月賞 - GI、東京優駿(日本ダービー) - GI)、トウカイオーザ(アルゼンチン共和国杯 - GII)


『データ』
■性別: 牝
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1934年4月23日
■死没: 1949年11月19日
■父: トウルヌソル
■母: 星友
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 宮崎信太郎/宮崎正義
■調教師: 中島時一(阪神)
■生涯成績: 31戦16勝(地方5戦2勝)
■獲得賞金: 9万8981円

ヒサトモの画像

(出典:Wikipedia)

トクマサ(第5回)

トクマサ

■回数・・・・第5回
■施行日・・・1936年4月29日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:42 1/5
■騎手・・・・伊藤正四郎
■調教師・・・尾形景造
■馬主・・・・山中清兵衛


【列伝】
トクマサ(得正)は、日本の競走馬。1936年に行われた第5回東京優駿大競走(日本ダービー)優勝馬である。血統は父が戦前の大種牡馬トウルヌソル、母も輸入繁殖牝馬種正(Young Man's Fancy)という良血。全兄に帝室御賞典(阪神)に勝ったキンチヤンがいる。

東京優駿大競走は6走目。1勝馬の身ながら挑み、5番人気で競走後に特払いが出る人気薄であった。このとき重馬場(実際は稍不)を見越してトクマサにスパイク鉄を履かせていたという。レースは最後の直線で騎手・伊藤正四郎が鞭が折れる程の気合の騎乗を見せ2分42秒1のタイムで優勝。2勝目を飾った。他に翌月横浜で行われた帝室御賞典、1937年の目黒記念(春)、中山記念(秋)等の勝ち鞍がある。全成績は27戦9勝、獲得賞金は6万3602円75銭。引退後は朝鮮の蘭谷牧場で種牡馬として供用されたが終戦の混乱期に行方不明となり、1943年以降の消息は資料散在もあり不明である。


【競走成績】
■1936年(12戦3勝)
東京優駿大競走(日本ダービー)、帝室御賞典(横浜)

■1937年(15戦6勝)
目黒記念(春)、中山記念(秋)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1933年
■死没: 1943年以降不明
■父: トウルヌソル
■母: 種星
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 山中清兵衛
■調教師: 尾形景造(東京)
■生涯成績: 27戦9勝
■獲得賞金: 6万3602円75銭

トクマサの画像(4番)

(出典:Wikipedia)

ガヴアナー(第4回)

ガヴアナー

■回数・・・・第4回
■施行日・・・1935年4月29日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:42 1/5
■騎手・・・・井川為男
■調教師・・・布施季三
■馬主・・・・高橋錬逸


【列伝】
ガヴアナー(1932年 - 1935年)は、日本の競走馬。父は小岩井農場が擁した戦前の大種牡馬シアンモア、母は帝室御賞典優勝馬アストラル。

1935年に行われた第4回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。全兄に第2回東京優駿大競走優勝馬カブトヤマがおり、日本ダービー史上初の兄弟制覇を達成している。他の兄弟では全弟に帝室御賞典 (秋)(第7回天皇賞)に優勝したロッキーモアー等がいる。騎乗騎手は3戦とも井川為男。


《略歴》
1935年3月にデビューすると2連勝を上げ東京優駿大競走に出走した。1番人気は3歳(旧4歳)にして帝室御賞典に優勝していた牝馬クレオパトラトマス。不良馬場の中クレオパトラトマスは9着に沈み、ガヴアナーはアカイシダケに6馬身差をつけ、タイムもレコードで優勝した。だが、東京優駿大競走のわずか2週間後、5月15日左後ろ足の種子骨を骨折し、治療の甲斐なく同月28日に安楽死の処置が執られた。


【主な勝ち鞍】
■1935年(3戦3勝)
東京優駿大競走(日本ダービー)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1932年3月9日
■死没: 1935年5月28日
■父: シアンモア
■母: アストラル
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 高橋錬逸
■調教師: 布施季三(福島)
■生涯成績: 3戦3勝
■獲得賞金: 28,230円

ガヴアナー画像

(出典:Wikipedia)

フレーモア(第3回)

フレーモア

■回数・・・・第3回
■施行日・・・1934年4月22日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:45 2/5
■騎手・・・・大久保亀治
■調教師・・・尾形景造
■馬主・・・・土田荘助


【列伝】
フレーモア(繁殖名ブラオンジヤツク、1931年 - 1945年不明)は、日本の競走馬。1934年に行われた第3回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。全妹にアステリモア(阪神優駿牝馬(オークス))、フェアモア(目黒記念(秋))がいる。なお史上唯一の秋田県産の日本ダービー優勝馬である。

デビューから3連勝で挑んだ東京優駿大競走は、デビュー3戦ともレコードで制し、前走帝室御賞典(東京)でもカブトヤマ等を破って本命と目されたミラクルユートピアが回避したことで1番人気に押され、結果テーモア等を下して勝利した。3着まで尾形景造の調教馬で占められ、同一厩舎の調教馬による上位3頭独占は日本ダービーに相当する競走においては今のところ唯一の快挙である。秋には東京で行われた帝室御賞典も制した。右前足の故障により現役を退くと、ブラオンジヤツクのと名を変え傷が癒えた5歳から静内の伊藤繁太郎の元で種牡馬入りした。カミカゼ、ホウカツピータの2頭の中山大障害(春)優勝馬を輩出している。1945年廃用となり、その後戦後の混乱の中消息不明となった。


【年度別競走成績】
■1934年(13戦7勝)
東京優駿大競走、帝室御賞典(東京)、中山四歳特別


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 黒鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1931年5月25日
■死没: 1945年?
■父: シアンモア
■母: アステリヤ
■生産: 土田荘助
■生国: 日本(秋田県雄物川町)
■馬主: 土田荘助
■調教師: 尾形景造(東京)
■生涯成績: 13戦7勝
■獲得賞金: 53,257円

フレーモアの画像

(出典:Wikipedia)

カブトヤマ(第2回)

カブトヤマ

■回数・・・・第2回
■施行日・・・1933年4月23日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:41 0/5
■騎手・・・・大久保房松
■調教師・・・大久保房松
■馬主・・・・前川道平


【列伝】
カブトヤマは、日本の競走馬である。1933年に第2回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。父は小岩井農場が擁した戦前の大種牡馬シアンモア、母は帝室御賞典優勝馬アストラル。

全弟に東京優駿大競走に優勝したガヴアナー、帝室御賞典優勝馬ロッキーモアーがいる。

1933年03月25日に中山競馬場の新呼馬戦でデビュー、初勝利を挙げる。その後1戦(3着)して2戦1勝で臨んだ第2回東京優駿大競走を優勝。

当時は調騎分離の以前で、カブトヤマを管理する大久保房松は、調教師でありながら主戦騎手でもあり29戦全てに騎乗した。デビュー戦を勝ち、東京優駿大競走では、大久保房松が体調を崩し一度は騎乗を辞退しながらも「僕は君のためにこの馬を預けた。もしダービーを勝っても騎手が君じゃなかったらあまり嬉しくはないだろう。」という馬主である前川道平の心意気に応えるために騎乗を決意し。高熱で朦朧としながら見事優勝した。というエピソードを持っている。

その後もカブトヤマは活躍を続け、5歳時には目黒記念、帝室御賞典(福島)、阪神農林省賞典等にも優勝した。

引退後は青森県の東北牧場にて種牡馬入りし、マツミドリ(東京優駿競走、京都記念)、千鳥甲等の産駒を輩出する。

後種牡馬となってから、産駒のマツミドリが東京優駿競走(日本ダービー)に優勝し、日本ダービー馬として初めて日本ダービー馬を輩出。この偉業をたたえ、1947年から2003年まで同馬を記念しカブトヤマ記念という名の父内国産馬限定の重賞競走が行われていた。

1951年に老衰のため死亡し、東北牧場の七戸町向平分場に埋葬された。


【年度別競走成績】
■1933年(10戦4勝)
東京優駿大競走

■1934年(19戦8勝)
帝室御賞典(福島)、目黒記念


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 鹿毛
■品種: サラブレッド
■生誕: 1930年3月5日
■死没: 1951年8月13日
■父: シアンモア
■母: アストラル
■生産: 小岩井農場
■生国: 日本(岩手県雫石町)
■馬主: 前川道平
■調教師: 大久保房松(目黒)
■生涯成績: 29戦12勝
■獲得賞金: 74965円

カブトヤマの画像

(出典:Wikipedia)

ワカタカ(第1回)

ワカタカ

■回数・・・・第1回
■施行日・・・1932年4月24日
■性齢・・・・牡3
■勝時計・・・2:45 2/5
■騎手・・・・函館孫作
■調教師・・・東原玉造
■馬主・・・・乾鼎一


【列伝】
ワカタカ(1929年 - 1945年)は、日本の競走馬である。1932年に記念すべき第1回東京優駿大競走(日本ダービー)に優勝した。

現在の東京優駿に当る東京優駿大競走は、1932年に目黒にあった東京競馬場で第1回が行われている。1着賞金は1万円、19頭立てであった。そのなかでも前走10馬身差で圧勝していたワカタカは1.95倍の断然の1番人気に押されていた。レースは函館孫作騎乗のワカタカが人気に答えてオオツカヤマに4馬身差をつけ逃げ切り勝ちを収めた。 ワカタカは東京優駿大競走以後も活躍し、帝室御賞典(東京)、横浜特別等の大競走に優勝している。

引退後は日高種馬牧場で国有種牡馬として繋養されたようだが、サラ系(3代母がミラ)であったことも災いし成功することはできなかった。産駒のほとんどがアラブ競走で走っていたという。1943年に廃用、その後1945年に慢性肺気腫により死亡したという。静内農学校(現・静内高校)の用地内に埋葬されている。

■20世紀の名馬Dream Horses2000 - 第118位


【年度別競走成績】
■1932年(11戦7勝)
東京優駿大競走、帝室御賞典、横浜特別

■1933年(10戦5勝)


『データ』
■性別: 牡
■毛色: 栗毛
■品種: サラブレッド系種
■生誕: 1929年3月17日
■死没: 1945年3月10日
■父: トウルヌソル
■母: 種信
■生産: 下総御料牧場
■生国: 日本(千葉県成田市)
■馬主: 乾鼎一
■調教師: 東原玉造(中山)
■生涯成績: 21戦12勝
■獲得賞金: 7万3698円

ワカタカの画像

(出典:Wikipedia)

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